音も言葉で。

小学校3年生か4年生のころ、ピアノをかじっていたことがある。軽やかな音色にひかれ…たのかどうかはわすれてしまったけれど、通わせてくださいと親に頼みこんでのおけいこごとだった。

かなりはやく、おのれの浅はかさを呪うときがきた。いつまでたっても楽譜が読めず、手を左右別々に、同時に動かすことができなかった。半泣きでピアノに向かっていると、幼稚園児くらいの女の子が寄ってきて「おねえちゃん、なぜ弾けないの?」と残酷な問いをぶつけてきたりした。小さな子たちがバイエルを次から次へとクリアしていく様を見るのは、つらかった。自分には向いてないのだなとあきらめて、1年もたたないうちにやめてしまった。

いま、わたしは決して遅くはないであろう速度のブラインドタッチで、この文章を書いている。もちろんピアニストには及ばないものの、頭ではなく指で考えているのではと我ながら思うほどだから、脳から指への伝達系統がスローだったわけではないことが証明された。

とにかく、音符が読めなかったのだ。音楽というものを、音符という言語で認識することができなかったのだと思う。

そういえば音楽の時間、たてぶえを吹くときは楽譜にドレミ…と文字を書きこみ、もれなく頭の中で歌っていた。音楽会では木琴や鉄琴を志願して、「ミ、ミミミミミミ、ミーレー♪」などと口ずさみながら、演奏していた。

つまりわたしは、音楽をカタカナに変換することで、ようやく理解していたことになる。世界との接点は言葉であった、と書くとなんだか…わたしっぽいかな。